ル・ヴュルカン Le Vulcain
新しいことに挑戦するには勇気が要るし、ましてや新しい場所に移り住むことは、もっと勇気が必要だ。
古くからの友人が、スイスからフランス北部のノルマンディー地方に移り住んだ。
彼の名前は、ジャック ペリタズ
わたしが世界一のシードルの造り手だと思っている人物。
そもそも、なぜ人は移住するのだろう。戦争や迫害から逃れるため、より良い生活を求めるため、愛する人を追いかけるため。理由は様々だと思う。
ジャックの理由は、夢と呼ぶには現実的で、現実と呼ぶには理想的な、そんな理由だった。
《消えゆくリンゴと、シードルリー デュ ヴュルカンの始まり》
ジャックはかつて、スイス北部でシードルリー デュ ヴュルカンという醸造所を営んでいた。
もともと植物・生物学者だった彼がシードル造りを始めたのは、原種に近いような古いリンゴの品種が次々と姿を消していくのを見て、何とかしなければと思ったからだ。
古いリンゴの品種が、効率の良い新しい品種に次々と植え替えられ、静かに姿を消していく。その現実に、彼は我慢がならなかった。
わたしたちは進歩という名の下に、多くのものを失ってきた。
古い建物は取り壊され、新しいビルが建つ。
古い品種の野菜や果物は、より効率的な新品種に置き換えられる。
古い技術や知識は、より合理的な方法に取って代わられる。
それが悪いことだとは言わないけれど、失われたものの中には、取り返しのつかない価値を持つものもあっただろう。
そんな時代の流れのなか、「この古い品種を残すべきだ」と声高に叫ぶだけでは、何も変わらない。彼はそう考えた。
ならば、そのリンゴを使って、人々を幸福にするもの、つまりシードルを造ればいい。それが売れれば、古いリンゴの木は切られずに済む。彼のロジックは明快で、そして正しかった。
彼の最初のヴィンテージは、たしか2010年前後だったと記憶している。彼の仕事の積み重ねは世界に認められ、パリのフォーシーズンズホテル ジョルジュ サンクやラルページュなどでも供されるようになった。
《絵葉書の中の風景と、借りものの人生》
しかし、年を重ねていくなかで、ジャックにある葛藤があった。
どんなに世界で評価されるシードルを造り続けていても、スイスという国では自分自身の本当の幸せ、心の平穏が得られないという事実。
スイスという国は、ご存知の通り、あらゆるものの値段が高い。土地も、建物も、まるで空想上の生き物みたいに非現実的な価格がついている。
自分の果樹園を持ち、次の世代へと引き継いでいく。そんな当たり前の夢を見ることさえ、そこではほとんど不可能に近い。
彼は借り物の醸造所でシードルを造り、借り物の家に住んでいた。
まるで人生そのものが誰かからの借り物であるかのような気分になったとしても不思議ではなかった。
彼の目を外に向けさせたのは、こうした経済的な理由だけにとどまらない。
彼がいたスイスのある地域の風景は、絵葉書のように美しい。遠くに美しく険しい急峻な山々、どこまでも広がる美しい牧草地。
しかし、よく観察してみると、そこにあるのは牛、牛、そして牛。
広大な牧草地が広がるばかりで、人々が口にする野菜や果物が育つ畑はどこにもない。農業といっても、すべては牛という巨大なシステムに奉仕するためだけのもの。
自分たちが食べるものは、遠く離れたどこかから運ばれてくる。そのことに、彼は静かな絶望を感じていた。
「ここには本当の意味での自然はないんだ」
その言葉には、深い失望が込められていた。自然と調和した暮らしを求めたくても、結局は経済効率の論理に支配されている現実がそこにあった。
そんな彼に、ある種の転機が訪れる。
きっかけは、スイスでリンゴが不作だった年のこと。シードルを作るためのリンゴが足りなくなり、ジャックは初めてフランスのノルマンディー地方からリンゴを仕入れることにした。ノルマンディーは、フランスのシードルの本場として知られる地域だ。
正直に告白すると、わたしが飲んだその最初のシードルは、困惑してしまうものだった。いつものジャックの作品とは明らかに違っていた。何かが足りない、というか、ちぐはぐな感じがした。ジャック自身も「リンゴの特性が違って難しいんだ」と困惑していた。
しかし数年後、再び彼はノルマンディーのリンゴで酒を造る。そして2度目は、見事な成功を収めた。
「どうすれば彼女たち(ノルマンディーのリンゴ)と上手く付き合えるか、そのコツが掴めたんだ」と彼は少し得意げに語ってくれた。
その時に生まれた「セック ソンスエル」という名のキュヴェは、スイスのそれとは違う、力強い旨味と複雑さを兼ね備えた、素晴らしいシードルだった。この成功体験が、彼に大きな自信を与えたことは間違いない。
こうした交流がきっかけとなり、ノルマンディーの造り手仲間から「知り合いがリンゴ農園を売りに出している」という話が舞い込んできた。
《ジャックの新しい農園》
そして彼は、スイスにいる自分に別れを告げる
わたしがジャックの新しい農園を訪れたのは2、3年前のこと。
農園に着いた時、わたしは思わず息を呑んだ。20ヘクタールか30ヘクタールか、とにかく途方もなく広大で、リンゴや洋梨の古木だけでなく、イチゴ、カシス、スグリの畑もあり、麦を育てる区画もある。鶏が駆け回り、馬が草を食み、牛がのんびりと歩いている。まさに昔の農家の暮らしがすべて詰まったような場所だった。
「ここは楽園だよ」とジャックは言った。
彼の顔は、スイス時代には見たことがないほど輝いていた。そして実際、そこには生きるために必要なものがすべて揃っていた。食べるもの、住む場所、そして何より、自然と調和した暮らし。彼が長年夢見ていたものが、そこにはあった。
農園にはもともと、ジュースやシードルを加工する建物もあった。農家民宿のような、ゲストが泊まれる建物もある。
この楽園を購入したジャックは、新しい人生をはじめることになる。
実は、最初はスイスとフランスを行き来して仕事をしていたジャック。しかし、あまりにも遠すぎた。
そして彼は決断した。ノルマンディーに完全に移住することを。
そして、新天地でジャックは再びシードルを、そしてポワレを醸すことにした。
《幸福がもし液体になるとしたら、たぶんこんな味がする》
さて、肝心なのは、新天地で造られたシードルやポワレの味わいであることは間違いない。
正直なところ、わたしは少しばかり身構えていた。土地が変われば、当然スタイルも変わるだろう、と。しかし、グラスに注がれた液体を口に含んだ瞬間、そんなわたしのちっぽけな警戒心は、心地よく裏切られることになる。
そこには紛れもなく、あのジャック ペリタズの署名が記された作品があった。
シャープで、ドライで、それでいて滑らかな舌触り。シードルが、ともすれば「カジュアルで気軽に飲むもの」というイメージがあるなかで、やはりジャックの造るシードルは違う。上質なワインと同じ地平で語られるべき芸術品だ。
おそらく、今の彼はとても幸福なのだろう。本当にやりたかった暮らし、自然と調和し、自らの手で何かを生み出すという純粋な喜び。そのポジティブなエネルギーが、ボトルの中に満ちている。
幸福というものがもし液体になるとしたら、きっとこんな味がするに違いない。そう思うと、わたしもなんだか嬉しくなってくる。
(輸入元紹介文より)
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